頑丈な檻の秘密


 ストンと新聞が落ちる音がして、王泥喜はうっすらと目を開ける。部屋の中は薄暗く、ガンガンと頭が痛むせいもあり、四つん這いになったまま緩慢な動作で布団から這い出る。下着を付けているだけの状態だったので、手の届くところにあったスエットのズボンをたぐり寄せて履く。
 それだけで疲労を感じ、ぺたんと座り込んだ状態で欠伸をした。
 何となく背後を見れば、ポッカリと大きく開いた穴から響也の裸体が見えるので、これは素早く布団に戻り、寒くないようにかけ直してやる。穏やかな寝息をたてる相手には頬が緩んだ。
 普段格好ばかりつけているくせに、寝顔は酷くあどけない。年上の男にそれはなかろうと思いつつ、可愛いという形容詞が相応しく思える。そんな感情がこみ上げる事自体、妙に気恥ずかしい。なので響也の顔を見ていられずに慌てて新聞を取りに玄関に向かった。
 玄関扉の郵便受けから顔を覗かせている新聞は2部。全国版のものと、地方紙だ。響也はこれに、経済新聞と英字新聞に毎朝目を通して出ると聞いた時には、頭が下がった。悔しいが、尊敬に値する男なのだ。
 ギュウギュウに詰め込まれた新聞を強引に引き抜くと紙がひらりと落ちる。
チラシかと思えばそうではない。簡素は白い紙だ。新聞よりも先に差し込まれていたのだろう。そんな気配など全く感じなかったなと首を捻り、四つに折られたそれを開き、王泥喜は目を見開いた。
 
 (アナタは牙琉響也に相応しくない。)

 取り敢えず目を通してから、王泥喜は紙キレを掌で握りつぶしズボンのポケットに突っ込んだ。
 此処へ帰って来たのでも見られてしまったのだろうか。
 ここまであからさまな脅迫文を受け取った事は無かったけれど、この手の嫌がらせには数回遭遇した事はあった。王泥喜自身はこの類の代物には慣れっこで(大学で飛び級などしていればそういうものだ)殆ど気にしたことなどない。
 けれども、響也の目に触れれば別だろう。
 怒るか、悲しむか。兎に角、相手にしない選択肢はないように思えた。只でさえ、相棒や今は兄の事で心労している響也を煩わせる趣味はない。

   「お、デコくん…?」

 掠れた声が自分を呼び怪訝そうな表情を見て、王泥喜は結構な時間、此処へ突っ立ち思案していたのだと気付き、苦笑いを浮かべた。

「おはようございます。」
 朝の挨拶を口にして、響也が寝ている布団まで脚を進めた。
じっと視線を寄越す碧眼が何度か睫に覆われる。怪訝そうな表情に、王泥喜も頭を傾げれば、響也は拳を握った手で目を擦った。
「キラキラで、誰かと思った。」
 再び顔を上げると同時にそんな言葉を口にする。はぁ?と扉を振り返った王泥喜は戸口の横に設えられた小窓から朝日が差し込んでいたのに気付いた。
「逆光でしたね。」
「そうじゃなくて、さ。」
 響也は、布団の横に立つ王泥喜の指に己のものを絡める。細くて長い指先は、余韻を残しているのか、身体が睡眠を欲しているのか子供の様に温かい。
 楽器を弾く為に指の腹は固くなっているから、王泥喜の指と指との隙間を擦り上げていく感覚がやけにリアルだ。  知らずに王泥喜の意識はそちらへ向かう。心を許した相手から伝わる熱は、情欲だけではなく、胸の奥がツンとするような甘酸っぱさを伴う感覚だった。

「眩くて。」

 ふいに引っ張られ、布団の横に膝をつく。
 気付けば顔は響也の胸に押しつけられていた。と同時に、締め付けを感じて王泥喜は眉をしかめる。抱きしめられた事によるものではない。
 どうしてこんな時に、腕輪が締まるんだ?

  「おデコくんは、普段は淡々としててもベッドインすると凄く情熱的だよね。」

…そもそも、ベッドじゃないし…と煎餅布団に視線を走らせハァと生返事をする。
 何が嬉しいのか、相手はギュウッと抱きついて来た。体格が良いのは響也の方だから、羽交い締めされているような錯覚を覚えた。
 心なしか、酸素が薄い。
「あの、検事…。」
「…ムードないな、響也、」

 おデコとか呼んでる奴はどこのどいつだ。意地でも呼ぶかと唇を噛みしめれば、呼吸はもっと苦しくなった。ヤバイ、意識が朦朧としてきたぞ。
 沈黙を保つ王泥喜から何を感じとったのか、響也はうっとりと言葉を続ける。
 
「それってね。僕が物凄く愛されてる証拠だと思ってる。でも、普段は素っ気ないから時々不安になるんだ。勿論僕はおデコくんの事愛してるよ。だからこそ、言葉が欲しいんだ。
 愛してるって言っておくれよ。」
 どんどん痛くなる手首に、理由はこれかと王泥喜は前髪を垂らした。普段はこれでもかとクールを纏い、気障なフレーズを奏でるくせに、妙な部分で乙女な男だ。
 胸がギュッと締め付けられる思いで言葉を吐いているとか、どうなんだよ。

 そこまで結論づけると、王泥喜は引っこ抜くように、響也の腕から身体を開放し相手と距離を置いた。期待に満ちたキラキラした表情に確信と共に、溜息が出る。

「あ〜…牙琉検事は、無駄にロマンチストですよね。」

 愕然とした顔に、しまったと思った時は遅かった。



 仕事着であるスラックスとシャツを羽織り、ベストの釦をしめたところで呼び掛けた。
「ほら、もう出掛けますよ〜〜!」
   しかし、布団の中でまん丸になっている相手は、何度目か声を掛けても沈黙のみ。完全に凹ませてしまったようだったが、王泥喜には本当に悪気は無い。
 そもそも、響也が並外れてロマンチスト…というか、乙女チックなだけだろう。みぬきちゃんが読んでいる少女漫画ですら、そんな展開有り得なかったぞ。

「仕事はいいんですか?」
「…ちゃんと行くよ、子供じゃないんだから。」
「そう、ですか。」
 ハァと大きく溜息をついて、ネクタイを締める。
 鏡越しに、金色の髪がチラチラしているのが見えた。実際拗ねているだけで、怒ってはいないらしいので、王泥喜は無理に家から連れ出すのは諦めた。機嫌が直るのを待つしかないだろう。

「鍵して出て下さいよ。アンタのマンションみたいにオートロックじゃないんですからね。」
「わかってるよ、そんな事!」
「はいはい、お願いしましたからね。」
 しつこく確認する母親のような王泥喜に、響也がムッと声を荒げる。これ以上機嫌を損ねるのは不味いだろうと、王泥喜は退散することに決めた。
 忘れ物をしないようにと、玄関に据え付けている椅子に仕事用の鞄は置いている。それを脇に抱えて、革靴を引き寄せれば背後で物音がした。
 何気に振り向くと、響也が立っていた。流石に髪を整える時間は無かったようで、ゴムで纏めて結ばれている以外、きっちりと服は整っている。鎖まで装着している早業には恐れ入った。
 わなわなと握りしめた手を奮わせ、くわっと息を吸い込んだ。

「置いてくなんて、酷いじゃないか!!」

 真っ赤になって怒鳴る相手に、王泥喜は盛大に溜息をついてから手を差し伸べる。自分の手を求めている行為がただ嬉しいと思ってしまったのだから、呆れよりも勝った。
「じゃあ、一緒に行きますよ。」 



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